【ネタバレあり】映画「虐殺器官」感想と考察【伊藤計劃】

2月3日金曜日の公開初日に観てきました。 この作品は小説をもう5年も前に読み、作品の虜となってしまっていました。 そこから長い時を経て、待望の映画化だったので是非記事にして感想を残したいと思いました。

まず最初の感想としては素晴らしいの一言。 原作者はすでにこの世にいない、最初に本作を制作していた制作会社の倒産、など普通のアニメ映画では考えられない苦難を乗り越えてこの世に登場した作品には様々な関わってきた人の思いが感じられました。

作画、演出、メッセージの深さなど2時間の中に込められたものがとても多く、かつハイクオリティで提供されているので濃密な時間を過ごすことができます。 満足できること間違い無しの良作だと思います。

しかし、やや難解なテーマのため、映画単体を見ているだけでは完全に理解はできるとは言えないでしょう。なので自分のためにも自分なりに考察をし、あなたと共有をしたいと思います。

「虐殺器官」とは

2007年6月に伊藤計劃により早川書房から刊行されたSF小説。 伊藤計劃のデビュー作品でもある。

あらすじ

9.11以降、テロとの戦いを経験した先進諸国は、自由と引き換えに徹底的なセキュリティ管理体制に移行することを選択し、 その恐怖を一掃。一方で後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加。世界は大きく二分されつつあった。

クラヴィス・シェパード大尉率いるアメリカ情報軍特殊検索群i分遣隊は、暗殺を請け負う唯一の部隊。 戦闘に適した心理状態を維持するための医療措置として「感情適応調整」「痛覚マスキング」等を施し、更には暗殺対象の心理チャートを読み込んで瞬時の対応を可能にする精鋭チームとして世界各地で紛争の首謀者暗殺ミッションに従事していた。

そんな中、浮かび上がる一人の名前。ジョン・ポール。 数々のミッションで暗殺対象リストに名前が掲載される謎のアメリカ人言語学者だ。 彼が訪れた国では必ず混沌の兆しが見られ、そして半年も待たずに内戦、大量虐殺が始まる。 母国アメリカを敵に回し、追跡を逃れ続けている“虐殺の王”ジョン・ポールの目的は一体何なのか。

伊藤計劃とは

2009年にわずか34歳という若さでその生涯を閉じた、SF作家です。 2007年にデビューしてから、発表した長編作品はわずか4作。

処女作となる「虐殺器官」

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伊藤計劃本人が熱心なファンである小島秀夫から依頼されたメタルギアソリッド4のノベライズ作品「METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS」

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遺作となった「虐殺器官」の後の世界を描いた「ハーモニー

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さらに、伊藤の没後、約30枚の未完の原稿を円城塔が引き継ぎ、伊藤との共著として完成させた「屍者の帝国」があります。

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Project Itoh

ノイタミナムービーの第2弾であり、伊藤計劃の原作小説3作「虐殺器官」「ハーモニー 」「屍者の帝国」を連続劇場アニメ化していく一大プロジェクト。

まず第一作目として、2015年10月に「屍者の帝国」が公開

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同年11月に二作目、「ハーモニー 」が公開

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そして2017年2月に最後の作品「虐殺器官」が公開されました。

映画「虐殺器官」感想

作画

当初の公開日を1ヶ月延期、そして制作会社の倒産、そして新スタジオ設立を経てようやく完成した作品の作画は文句なしに最高です。

作中に登場するハイテクなメカ系のSF要素や十の質感などのミリタリ要素など男心をものすごくくすぐられました。 登場人物の持ち物もいちいち細かくハイテク化されていたり、街の雰囲気もほんとうにありそうな近未来感とでも言えば良いんでしょうか。信じられないほど現在から変わっているのではなく、今から少し技術が発展した世界という感じでゾクゾクします。

SFものにありがちなハイテクメカやその他の技術の説明は映画の中で語られることは少ないですが、必要な部分は説明されていますし、細かいところは気になった人は原作を再確認すればいい上に、見た目でとにかくすごいということが伝わるので丁度いい、という感じです。 ただ、原作を読まずに映画だけ見るとすこし分かりづらいところがあるかもしれません。

人工筋肉の描写だったり、コンタクト型の現実拡張デバイスだったり、とっても丁寧に書き込まれていた印象です。

人間の描写もモブ一人一人にもしっかり顔が付き、表情も豊かなので物語に深みが出ます。 背景の書き込みも素晴らしいので没入感があります。

演出

伊藤計劃の作品は一人称で物語が進んでいくことが特徴です。 「虐殺器官」でも主人公のクラヴィス・シェパードの「ぼく」視点の語りで物語が展開されます。

原作では一人称という特性上地の文で主人公の心理描写が細かく描かれている印象でしたが、映画ではモノローグ的に語られる心理描写は少なく、会話や表情で多く描かれるイメージでした。 その点で、登場人物、特に主人公の行動原理がイマイチわかりにくいと感じることもありました。しかし、観終わったあとから思い返すと、あのシーンはこういう意味があったのかと気づく場面がありました。 名作と呼ばれる小説と同じように何度か見返す毎に発見がありそうな作品だと感じました。

小説で言語化されている部分をうまく省略して、いかに表情や声の演技で描写をするかを追求したかのような印象を受けました。

主人公の心理描写と言えば、小説では描かれている主人公の人格を形成する上での大事な部分が思い切り描かれていなかったことには驚きました。 尺の関係もありますし、カットするところは大胆にカットし、映画という作品に収めるために原作から変えているところも多かったです。

↓↓↓以下、ネタバレを含みます。ご注意ください。↓↓↓

ストーリーにそって考察

序盤のシーン

物語のエンディングにつながるシーンから場面転換し、現地へ潜入した暗殺部隊である主人公たちが任務を遂行する冒頭の場面で、現地語を理解するアレックスが車の中で流れる現地語のラジオを聞いていることが伏線になり、後にアレックスは感情の制御ができなくなり暴走します。

これは虐殺の文法と感情マスキングが互いに干渉しあったためだとのちにジョンポールによって説明されます。

虐殺の文法を用いて放送される現地語のラジオを聞いてしまったアレックスは感情をコントロールできなくなりますが、命令によってそのアレックスを殺すクラヴィスの感情は完全にフラット。これが虐殺の文法を用いられた人間とそうでない人間の対比構造に見えますが、現地の政府高官をあっさりと殺した=アレックス、暴走したアレックスをあっさりと殺した=クラヴィスが同質である、つまり言語によってもたらされる虐殺の文法とテクノロジーによってもたらされる感情マスキングが本質的には同じものであるということを示唆しているのではないかと考えました。

地獄は自分の頭のなかにあると言っていたアレックスは原作では避けられない自分の中の地獄に耐えきれず自殺をしたことからは大きく改変されています。

ここでアレックスを殺したことはクラヴィスの頭の中に残り続けます。

アレックスの死の描写は原作とは全く異なったものとなっているのですが、物語終盤のクラヴィスとウィリアムズの対比を表現するために一役買っています。

ピザのシーン

原作ではクラヴィスとウィリアムズがピザを食べ、バドワイザーを飲みながら自宅で映画のストリーミングサービスの無料の冒頭15分のシーンを延々と観るというシーンは、映画ではなくアメリカンフットボールの映像に変わっていました。

これは2人が典型的なアメリカ人であることの説明であると解釈しました。 また、細かいルールで守られた選手たちを見て、「過保護だ」と述べる2人も感情調整によってどんな残虐な行為をおこなっても感情がフラットなままという、「過保護」に守られているという状況の暗喩的ではありますが説明になっています。

プラハ潜入のシーン

このシーンは、クラヴィスが見る死者の国の悪夢を除いてほぼほぼ原作通りの展開ですね。 作中全体を通して、クラヴィスのこの悪夢や母親に関する描写はいっさいありません。 少し残念ですが、それでも話の筋は通るので仕方ないのかという感じです。

ルツィアに連れられてクラヴィスは認証のいらない、追跡のされないナイトクラブのオーナーであるルーシャスと会話をします。

若者は完全な自由が存在していると信じているがそんなものは存在しない。自由はある程度束縛があってこそ逆説的に生まれるという考え方です。 どこかで自由を得ることで、別の自由を放棄してしまう。

この会話に出てくる「自由は通貨である」という考え方は今までの自分にはなかった発想なので純粋に感心しました。

原作ではクラヴィスはルツィアに惹かれていると明言されているものの、映画ではその描写はあまりありません。強いて言うのならば、ルツィアがナイトクラブに生徒を連れてきたことが初めてであるという会話を受けてのクラヴィスが満更でもなさそうな感じくらいでしょうか。 それが映画でのクラヴィスの行動原理を読めなくさせている理由となっているので、もうすこし直接的な表現があったほうが良かったのかなと思いました。

ルツィアがジョン・ポールと寝ていたときにジョンの妻子はサラエボで核に焼かれたという告白のシーンで、ルツィア、ジョンの背負う罪と言うものが見えてきました。 この物語では全員が背負った罪に対してどう責任をとっていくのかが重要となるという話の大筋が見えてきます。

その後のクラヴィスが背負う罪について語り、それをルツィアが赦すというシーンがまるまるカットされていたのは痛かったですね。

原作ではクラヴィスはルツィアに罪に対する罰を、赦しを求めているとはっきり書かれているのですが・・・ このように映画では、クラヴィスのルツィアに対する感情がとてもわかりづらくなります。 映画の中でのクラヴィスの罪としては子どもを含めてかなりの数の殺しを行っていることや、それをしても感情がフラットなままのことだけしか描写されていないのでそこのカットは自然なのですがすこし残念ですね。

ジョン・ポールとの初めての邂逅

「計数されざるもの」(=サラエボの核爆発によって、行方不明者となった人間の指紋や網膜などの各パーツを利用することで各種認証を欺き、この追跡可能社会から追跡されなくなった人間たち)に捕えられることとなってしまったクラヴィスはついに、【虐殺の王】ジョン・ポール邂逅します。 ここでは虐殺の文法とは何か、どうして生まれたのかという物語のキーとなる部分が人間の生得的な文生成機能を通して明かされます。 ここでは世界に虐殺を振りまくジョン・ポールがそれでもなお正気も正気であるという異常さや、クラヴィスがいかにその社会の現実に目を背けてきたかがわかります。 音は意味を伝える事ができ、耳に瞼はないという言葉がここで大きな意味を持つようになります。

ジョン・ポールがその場を後にすると続いて「計数されざるもの」のリーダーだったルーシャスとの会話が再度始まります。

過度な追跡可能社会に住む人は、なんでも情報を得ることができるにも関わらず、知りたい情報しか得ない、見たいものしか見ないことをクラヴィスは気付かされます。

ジョン・ポールの捕縛任務

クラヴィスの所属するi分遣隊は、虐殺の王ジョン・ポールを捕縛する任務を受けインドへと出発します。 そこでの幼年兵遭遇交戦可能性(通称CEEP)はほぼ確実、つまりクラヴィスたちは年端もいかない少年少女に手をかけることを余儀なくされています。

戦場へ赴く兵士たちへ軍はカウンセリングにより感情を調整され、脳の特定のモジュールにマスキングを施して不要な感覚を排除されているので、子どもを射殺しても何も感じることはないし、たとえ腕がちぎれても「痛みがある」ということは認識できるが「痛い」と感じることはありません。これが感情マスキングや痛覚マスキングです。

虐殺を引き起こす人間を追い、それを止める任務の中で、自分も無感情に殺戮を行っているこという矛盾にクラヴィスは疑問を持つようになります。

人を殺めているが、それに対して罪悪感を抱くことはなく、任務だからと納得しているのです。

そして捕縛に成功したジョン・ポールからクラヴィスは虐殺の文法の効果はクラヴィス達が受けている感情の抑制と変わりがないという話をされます。 クラヴィスたちはテクノロジーによって、ジョンは言葉の力によって、脳の特定のモジュールの活動を抑制している。 結果として、お互いに虐殺を起こしている。 さらに、感情の抑制を受けている人間に対して、虐殺の文法は相乗効果的に働くというジョンの発言で、冒頭のシーンでアレックスに何が起こったかを理解し、そして自身とジョンが行っていることは本質的に同じということに気付かされます。

しかし、クラヴィス達は捕縛したジョン・ポールをアメリカへの輸送中に、ユージーン&クルップス社に襲撃され奪還されてしまいます。

ラストシーン

奪還されたジョン・ポールを求めて、クラヴィス達は最後の出動をします。

ここではジョン・ポールがなぜ、各地で虐殺を振りまいたのかが語られます。

ジョン・ポールの行動原理は「愛する人を守るため」 ジョンは愛国心溢れる人でした。 ソマリアのテロで妻子を失ってから、これ以上自分の愛している人を失う悲しみに耐えられませんでした。 そして、愛する人々、これはジョンの所属するアメリカ人です、とそれ以外の人々、ジョンが虐殺を振りまいて歩いた国々の人々、をくっきりと分け、愛する人々のためにその他の人間には犠牲になってもらうという考えを持つようになりました。

具体的には、追跡可能性が極限まで高まった社会で結局アメリカ国内でのテロリズムが増えているという事実、それを食い止めるためにはテロを起こす人たちにアメリカを攻撃するのではなく、自国内で殺し合ってもらう、内戦を起こして虐殺を誘発する。 その結果としてその矛はアメリカに向くことはなく、アメリカ国民は平和に暮らすことができる、と言うものです。

その場にいたルツィアはジョンに銃を突きつけ、犯した罪に対して責任を、罰を受けろといいます。 そしてクラヴィスにジョンの逮捕を願うのです。 しかし、ルツィアはクラヴィスの同僚であるウィリアムズにあっさり射殺されてしまいます。 ウィリアムズにはジョンとルツィアの射殺命令が出ていたのです。 ここでは劇中冒頭のクラヴィスとウィリアムズが重ねられて描かれています。

感情のコントロールが効かなくなったアレックスをあっさりと殺したクラヴィスと、 命令によってあっさりとルツィアを殺したウィリアムズ

そしてクラヴィスはルツィアという愛する人を亡くします。

そしてクラヴィスとジョンは2人でウィリアムズやその場にいるアフリカの武装勢力から逃げ、大きな樹の下で足を止めます。

ただ命令されるがままに戦場で多くの命を無感情に奪いってきたクラヴィス、虐殺の種をまくことでその背中に多くの命を背負ったジョン。 ここからはクラヴィスとジョンが重ねられることになります。

無責任に殺戮を犯してきたクラヴィスと奪ってきた命を自覚しながらそれでも虐殺を繰り返したジョン。

ジョンは自分なりに奪ってきた命に対して逃げることなく受け入れていました。 クラヴィスは責任を、罰を受けていません。

クラヴィスはジョンを殺します。 責任を果たすために。 小説では救援に来た仲間にジョンが殺されますが、これはクラヴィスが殺して良かったと思います。

エピローグ

クラヴィスが最終的に選択したことは、アメリカ以外の国を守るために、アメリカを虐殺の海に沈めることでした。 クラヴィスは虐殺の文法でジョンが起こしたこの一大事件を語ることです。覇権言語である英語を用いて。

その結果、アメリカのピザの普遍性は失われ、追跡可能社会はいともたやすく崩壊しました。 それでも、クラヴィスが今まで殺してきたような国の人々は内戦を起こすことも、アメリカに対してテロを起こすこともなくなりました。 アメリカは勝手に内部で自滅しているからそんなことをする必要もなくなったという方が正しいかもしれません。

クラヴィスは今まで殺してきた国の人々を守るため、今までの罪に対して、アメリカを混沌に陥れることで責任を取ることにしました。

というのが最初に私が考察したものだったのですが、どうしても虐殺の文法を使用してまで世界に混沌をもたらしたクラヴィスの思考が読めませんでした。そこでもう一度考え直してみたところジョンポールとの対比をすることで見えてきたものがあります。

クラヴィスは、生(または死)の実感を得たかったというものです。

作中ジョンポールはあくまで正気で、今まで自分の手は汚してはいないものの、自分が実質的に殺してきた命は全て背負っているつもりだと言いました。

対してクラヴィスは、感情マスキングを施され、自分の殺意が自分のものかもわからない状況、さらに本質的には感情マスキングは虐殺の文法と変わりがないことも教えられ、今までの、自分の行動や感情に実感が持てていないのです。アレックスを殺したにも関わらず、罪悪感を持っていないことに罪悪感を感じているのかもしれません。

そこでクラヴィスは、自身の意思によって虐殺の文法を使用することによって、殺したという実感、罪の意識というものを感じ取ろうとしたのではないでしょうか。

用語解説

虐殺の文法

作中でジョンポールが操り、世界各国で虐殺を引き起こした直接のツールのようなもの。 言語の中の深層文法の特定のパターンであり、ナチスドイツなどの虐殺が起こった国の政見放送や国民の発言など、国内の様々な言葉の中に現れる。 プロパガンダなどの人の目に映り大きな影響を与える媒体との親和性が高く、発言力の高い人間を狙ってこれを仕込めば一瞬の間に国中に虐殺をばら撒くことが可能となる。

その効果としては、人間の脳の中の特定のモジュール、特に「良心」を司る部分を機能停止に追い込み、身近に虐殺といった非道なことが行われても正当なものと認識したり、なぜ虐殺という手段に至ったのか冷静に思考する機会を奪ってしまう。 言葉によって人の間に伝播し、「感染」していく。

政府の高官や軍のトップなど組織の中枢を担う人物に効率よく虐殺の文法を仕込むことで簡単に人間たちを虐殺へ誘うことができる。

ジョンポールはこれを人間の進化の過程で生まれた太古から備わる機能の一つだと説明した。 昔、あるコミュニティがあった。そのコミュニティが発展するにしたがって人口は増えるが、徐々に食糧難に直面することになる。そうすると、個が生存するためには集団の人数が減らなければならない。したがってコミュニティの中で虐殺が起こるようになる。 これは一見コミュニティを破滅させ、個を殺しているように見えるが、虐殺が進むと食糧難は解決し、結局は個の生存に貢献している。 そのような機能が太古から人間には備わっており、現在も消滅はしていない。

ジョンポールは実際に虐殺の起こった場所のあらゆるテキストを集め、その深層に潜むパターンを見つけ出すことでこれを自由に他の言語に仕込むことができるようになった。

まとめ

以上が本作の自分なりの解釈、感想です。 終始、哲学的な内容が多く、論理的に話が展開されていきます。 伊藤計劃の世界観に引き込まれ続ける作品です。 もうこの世にいないにも関わらず作品が映画化され、更に多くの人の目につくということはいちファンからしてもとても嬉しいことです。

また小説読み返してみようと思います。

それではまた。

About the author

日本の大学を休学してスノーボードするためにノルウェーで1年間生活。腰椎分離症になってしまったため、現在は様子を見ながらニセコで滑っています。プロでもなんでもないですが、行けるとこまで行ってやろうと毎日滑ってます